南海ホークスの監督として一時代を築き、親分とよばれた名物監督「鶴岡一人」は、プロ野球界に燦然と輝く星といえる人です。
親分と呼ばれた人は彼だけではありませんが、その先駆けともいえる人物であり結果を出した人として、この人をあげないわけにはいかないでしょう。
輝かしい球歴を持ち、戦前の甲子園では中等野球の名選手として優勝も経験し、卒業後は法政大学に進み六大学史上最高の三塁手として名をなしました。
1939年の大学卒業後は、プロ野球球団入団選手第1号として、南海軍に入団しました。当時のプロ野球は職業野球と言われ、大学野球が大人気であったために芸人扱いを受けるような境遇であったが、軍隊に徴兵されて死ぬならば好きな野球を続けたいという意思を貫いたからであると言われています。
卓越した統率力を持ち、入団時から大活躍をしました。徴兵されるも無事に復員して、南海ホークススを率いて最年少で優勝を飾り、大監督しての道を歩み始めます。